昭和44年05月04日  朝の御理解



 御理解 第55節
 「賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとうなってくる。」

 確かにこの通りですね、若い時にはやはりその若さと言うか力と言うか、ございますから、日雇いにでも雇うてくれるんですけれども、段々歳を取ってまいりますと雇うてくれんようになる。それは力が段々なくなっていくから、仕事が言わば出来なくなるからであります。信心はそれとは反対に、「歳がよるほど位が付くものじゃ」とこう、「信心をすれば一年一年有り難うなってくる」とこう仰せられる。果たして信心をしておる者の全てが、位が付くほどの信心を頂いておるだろうか。
 果たして一年一年有り難うなっていきよるであろうかと、それはもう実に少ないですね。歳を取って段々有り難うなっていくという、言われてありますけれども、中々位が付くといった様な信心を頂いておる者は少ない。どこんとこが間違うておればそう有り難うなれんのか、位が付いていかんのか。成程若い時には熱烈な信心が出来る、勿論おかげも受ける、御用もまぁ人の真似の出来ん様な御用がどんどん出来る。ただその熱烈な信心をしたとか、その事によって人が目をみはる様なおかげを頂いたとか。
 その事でなら沢山の御用が出けたとかと、いう様な事だけでは私は位は付かんと思う。問題はこの一年一年有り難うなって行かなければ、その位ここで言う位というのは、私は一年一年有り難うなっていくということだと思うんです。位が付くというのは一年一年有り難うなって行くということなんですね。そこでそのお互いまぁ若い時にしっかり信心の稽古をさして頂いて、この生き方で行けば有り難うなるぞという、そこんところをひとつしっかり頂いておかにゃいかん。その決め手というものをね。
 この信心さえ育てて行けば、位が付くぞ有り難うなって行くぞという、私は「これならば」という、ただ参りさえしおりゃええ、御用さえ頂きよりゃええといった様な事ではです、信心に位は付かんのですよ。御神誡の中に「真の道におりながら真の道を踏まぬこと」と仰る御教えがございますよね。御神誡に「真の道におりながら真の道を踏まぬこと」、まぁ言うなら信心はさして頂きよっても、信心になっていないと。「信心する者は何事にも信心になれよ」とこう仰る。
 「信心する者は何事にも信心になれよ」と仰るのに、信心にならない。だからそういう信心がどんなにでけておっても、長くでけておっても歳を取って行っても、なるほど有り難くならんはずだと私は思うんです。ですから結局その真の道を、まあ言わば目指さしてもらい、真の道を踏んで行くということ。ということがですね、歳を取って行くほど位が付くものであり、同時に一年一年これならば間違いなく有り難うなっていくということ。という様な事をまぁここの55節では、教えて下さってあり。
 まぁ説明して下さってあるという様な感じですね。コロンブスという人がありましたですね、コロンブスの卵、小学校の時にところに出ておりました、その当時世界は平ったいものだと皆がそれを信じておった。ところがそのうコロンブスがそうではない事を、はっきり自分がそれをまぁ証を立てたと言うか証明した。例えて言うならば東の方へ東の方へと進んで行けばまた必ず自分の元の所へ戻ってくるんだという。
 地球は丸い物だと、だから東の方へ東の方へと向いて行きゃまた自分のここの居るここん所へ帰ってくるんだという説を、そのはっきりした訳ですね。なるほどあの航海では、そしてあのアメリカ大陸ですかを、あの発見してそれから段々東の方へ東の方へと進んでまいりまして、また元の所へあの帰ってきた。そういうようなそのまぁ大成功裡に終わって帰ってまいりました時に、あのうそのう何て言うですかね、何かパーティーのようなものが開かれたんですね。
 そこでそのまぁ色んな苦心談を色々その、コロンブスのお話しを皆が聞かしてもろうた。だからそん時その「こう東の方へ東の方へ行きゃぁ誰でもここへ戻ってくるんだ」ということを、ところがそん中に一人がです、そんならその「誰でも出来る事だな」とこう言うた。「東の方へ東の方へと行きさえすればここにまた戻って来るんだから、それじゃったら、あっコロンブスだけではなくて誰でも行けるんだ、誰でも出来るんだ」というような事を話した時に、あのコロンブスがこのお料理の中に卵があった。
 まあ茹で卵かなんかでしょうね。ですから「皆さんの御繕の前にある、その卵を立ててみれ」とこう言う。皆がそれをやった。ところがそのなかなか卵が立てん立ちません。そこでコロンブスが、ちょっとその卵に傷を入れてから、こうして繕の端に立てたとこういう風に。「そりゃそげな事するならもう誰でん立てきるたい」っち言うちからその、皆んなが言うたとね。「けれどもそれに気付くということなんだ問題は。その気付くということが素晴らしい事だと、同時にその気付いた事を行ずるということ。
 それを行いの上に現して行くという事が難しいことなんだ」と説明したというお話しが出ておりました。「信心をすれば誰でも有り難くなれれる、というものじゃない。有り難くなるためには真の道に、せっかく御神縁を頂いておるのであるから、真の道を踏まなければ有り難くなれない。」「そんなら真の道を踏んでさえ行きゃ誰でも有り難くなれれる」「そうどこじゃない」、そんなら一つ有り難くなってみれという事になるけれども、なかなか有り難くなれない。
 問題はその真の道とはどういう道なのか、「はぁ真の道とはこれだ」と、と例えば分からしてもらう気付かしてもらう。これさえ踏んで行けば、これさえ一段一段進めて行けば必ず位が付くぞ、有り難くなれるぞということを身をもって行じて、身に体験を頂いて行く。これさえ踏んで行けば、これさえ行のうて行けばここんところだけ、ここんところを、間違いなく頂いてさえ行けば有り難くなれるぞと、位が付くぞ歳を取るほどにというようにですね、確信を持ってそれに進んで行けれる。
 そして初めて有り難くなれるもんだと。第一真の道とはと追求した事も思うた事もない。真の道とはならどういう様な、金光様の信心しとりゃ皆が真の道におるのかと、決してそうじゃない。その証拠にゃ一年一年有り難うなっていないじゃないかと、いう事になるのです。昨夜吉井の熊谷さんのところの恒例の謝恩祭、宅祭がございました。お参りになった方はご覧になったと思いますけども、お神様の前に見事なお花が、垢抜けのしたお花が入れてございました。
 これは娘さんのよう子さんがお花の稽古をしておられますから、「よう子さんですか」と言ったら、「いいえこれは向かいのお花の先生をしておられる方が、入れて下さった」とこう。やはりそのう同じ材料を使っても、同じ格好のようにしておっても、何て言うですかね、やはり洗礼されたものと言うものは違う。見事に入れてございましたが、まぁその中から、大体大きくあれは鈴掛って言うんですかね、小さい白い花が丁度あの鈴掛のように、まぁしとりますね今どこにも咲いてます。
 鈴掛が大きくかっとこう輪郭を作って、それを弁慶百合って言うですかね、真っ赤な百合がありましょうが一本、その根元に桧の桧葉ですね、桧の桧葉でこう根元をまとめてあるというお花でした。まぁ百合と言えばその「歩む姿が百合の花」というようにその姿が良いと言うのですけれども、それはその、熊谷さんのとこの場合はどこまでも弁慶百合であったということ。それが何ですかね、そのうやはりお花のセンスって言うか、お花の先生ともなると、私共で素人ではとても考えられない。
 そのたった一本でそれが可笑しくないんですね、一本の弁慶百合ですよね。大体言うなら一本ぐらいじゃ纏められないような感じですけれども、それで実に調和のとれたお花でした。ですから赤ということは信心の熱情というですから、「はぁこれは熊谷さんの事だ」と私は思うた。鈴掛というのは、これは信心という事だとこう思うんですよね。あの山伏さんがここにこう下げる、あれを鈴掛って言うんでしょたしかね。あれいわゆる信心のやはり信心。
 熊谷さんところの信心というのがです、立派な形の整うた信心が段々整うて行きよる。けれどもまぁだそこにはですね、うんなら一生懸命熊谷さんが、ならなっておられるだけだとこういうのである。一本の百合があぁそのでその花全体が保たれておるんだということなんだ。桧葉ということはこれは信心ということでしょうね、真の信心ということでしょう。これは熊谷さんの事ですから、今日のこの御理解じゃないけれども、一年一年有り難うなって行くという信心を、続けておられるわけであります。
 それも間違いなくまぁ一歩一歩前進させ、されておられると思います。ところがそのう肝心要の息子達夫婦、または娘達がなら熊谷さんが願っておられるように、信心を反対もしない。けれども自分達はその、まぁ大祭なら大祭なんかにお参りするぐらいな事で、なら熊谷さんの信心について行こうとはしない。むしろどちらかと言うとまぁ批判的であるかも知れん、則郎さんの嫁さんはその当時総代同士であった、むつやの田代さんの所の、長女を貰い受けたのもね。
 ここどうでも一つ御相談して、あちらの恵美子さんを貰えと本気で思われたのも、「この人を貰うとさえおければ必ず則郎が信心になってくれる」とこう、いう気持ちが強かったね。総代さんの娘自分とこも同時総代の息子と総代の娘、この取り合わせなら必ず恵美子さんが私の信心を継いでくれるとこう、勿論継ぐ事に違いありません。恵美子さん自身だって則郎さんだっておかげを受けておる事も知っておるし、信心がなら現在その熱心にお参りをするということではないけれども。
 継いで行く事になりましょうけれども、現在のところは残念ながらそれが出けてない。さあ宅祭と言やぁその夫婦で帰って参りまして、色々御用さして頂いてそのあのお祭が言わば出来た訳ではありますけれどもですね、娘さんのいつもおられるよう子さんなんかは、昨日おられませんでした。いつもまぁこの連休の時には旅行されるらしいんですね。だから昨日も玉串上げられないからおられないの、やっぱりそうだろうと思うのです。まぁ言うならば熊谷さんとしては残念なことだろうとこう思いますね。
 娘さんとお二人で生活しておられる。しかも年に一遍の謝恩のお祭、それこそ前から「その休みじゃからお母さん私がしっかり」と言うて例えばうんなら、信者さん方ですらが皆お手伝いにきておる位だから、来て下さるという事であればもっと心強い有り難い事であろうと、則郎さん達夫婦でもね、例えばうんなら、福岡から毎日毎日日参さえしておる人があるのであるから、せめて日曜だけでも、せめてお月次祭の時だけでもと、夫婦の者がお参りをしてこの御広前で親子が会えれるというような。
 まぁ信心の一つの願いというなものを持っておられるであろうけれども、それが行の上には実際現わされてはいない。昨日私はそのう丁度あちらへまいります前に、ヒゲをあたってもらった。ヒゲをあたってもらっとる間にお夢を頂いた。私が大体酒屋でございますから、その昔の酒屋をしておるような情景、そしてあるご信者さんのお宅に、それを5升瓶ですね、5升入りの瓶で配達をしておる。
 ところがその向こうの方がですね、私に「親先生」もうそん時にはもう親先生、「親先生大変申しにくいですけれども、お宅の方からこうやってお酒を頂きよりますけれども、最近どうも主人がこれは水っぽい、どうも酒が薄うなった。本当に口上言うちゃすまんですけれども」と言われるから、「そんなことはないですがね」と言うて私がコップについで、その飲んでみたところが、なるほど香りは素晴らしい香り、いわゆる一級酒の香りをしておるけれども、飲んでみたら甘かった夢ん中で。
 もう本当にブブのようなお酒だ、これは五割ぐらい水を入れとろうと思われるような酒である。こんな酒を売ったはずはないと思うけれども、というようなそのお夢であった。ここで皆さんがね、有り難き勿体無き、恐れ多きの三喜を奉れという三喜と御酒。その有り難き勿体無っき恐れ多き、というその信心の稽古を一生懸命なさっておられる。確かに御広前では有り難かった。
 ところがその勿論水が薄うなったという、水が割ってあったということはです、ここでは有り難かったけれども帰る頃にはそれが段々希薄なもの、薄いものになっておったと。それは銘々の我情我欲がね、薄いものにしていくんだと、同時に水を刺さえるんだと。信心の薄い者信心のない者が、それに批判的であったり、「あなたは信心ばっかりするけれども、こう」といったような風に水を刺されるとです、つい自分の心まで暗くなったり、有り難いものが有り難くなくなったりするということは、水を刺される。
 自分で水を刺したり人から刺されたりする様な事で折角のそのお神酒が薄いものになっておるんだという様なお夢であったね。それでもやはりそのう段々一年一年有り難うなっていく、信心の稽古をお互いさして頂いておりますけれどもですね、「そんなはずはないが、まちっとぐらい有り難くなっとらなきゃならないはずだが」というのが、実際締めくくってみるとそれほどに有り難いものではなかった。
 「歳を取るほど位が付く」とおっしゃるが、もちっとぐらい位を受けなきゃならんのに、位はこのくらいじゃったといった様な事ではいけないじゃないかと、いったような御理解を昨夜頂いたんです。そういう様な事で一年一年有り難うなっていくというのが、いわゆるその遅々としておる。まぁいやぁ遅々としてでも進んでおれば良いけれども、そこんところをぐるめぐるめしておるといった様な事はないだろうかとお互いが、やはり自分の信心を検討してみなければいけません。
 まず我情我欲を捨てなければ、我情我欲がね、自分のつまらん考え方やら思い方やらがね、つまらん欲やらが、折角の有り難いものを、有り難くなくなってしまう訳なんですね。例えば55節からそのところも頂かなきゃならんが、同時に今私が申します、真の道におりながら真の道を踏まぬことということ、いやこの道さえ行けば、この生き方でさえ行けば、おかげが受けられるぞと、そういうところをまぁ合楽の方達は本気になって取り組んでおられると思うんですからね。
 必ず位が付く事を身に感じなさるであろう、歳を取っていくほどに。又はこの調子で行きゃ、一年一年有り難うなっていくというようなものを、身に付けておられるであろうけれどもです、そこんとこをもう一遍確かめてみて、本気でですこれは若い内は、若い内は力があるから、賃を取ってする仕事は、若い内でなからなければ人が頼み手がない。歳を取ってくるともう頼み手がなくなって来る様にです、信心はそれとは反対。若い内には力がない信心の。
 そこでですこういう生き方さえしておけば、こういう修行してさえ行けば力が付くんだ、有り難くなって行くんだという、そのところをしっかり把握して、それが育っていく信心を頂いていかなきゃならん。それは勿論真の信心である、真の道である。その真の道を歩かなければならん。そんなら真の信心とは、真の道とはどういうことかということをですはっきりこれに頂いて、それを思い込ましてもろうて、それを行の上に現して、コロンブスじゃないけれども。
 その間にはもう船がこれで転覆するかもしれん、これはどこへ着くじゃか分からんと、もう暗たんたる時もあろうけれどもです、これだけ信心するけれどもおかげ受けられるじゃろうかと、自分で思うような事もあろうけれどもです、そこを乗り切り乗り切り、私は邁進さしてもらう信心。そして成程この生き方さえして行きゃぁ、おかげが受けられるんだ有り難くなれるんだというものを一つ把握していく。それは皆さんがここでいつも頂いておる通りですから、真の信心とはこれだと。
 それだけに限ったことじゃなかろうけれども、私が言う真の信心とは、皆さんにいつも私が申しております、「成り行きを大事にせよ」ということなんだ。言うなら神様が私共に銘々一人一人に求め給うところの修行、その神様が私銘々に求めて下さるその修行に、本気で取り組む事だと。その修行をです右にし左にししておったんではです、それは成り行きを大事にさえして行けばです、必ず有り難くなれれるということが分かっておるだけでは、何十年経ったっちゃ有り難くなれないということ。
 それでそれを日々の生活の中に本気で、これは私に神様が求め給う修行であるとしてです、それと四つに本気で取り組んでです、その取り組まして頂く事の有り難い、又は体験をそこに現して行きながら、自分の心の中にその有り難いものを蓄積して行くという事がです、私はいよいよ大事になって来るのでございますとそう私は思うのです。だからこの生き方さえしていけばです、今若い内にですここん所をしっかり自分の身に付けて、その思い込みがいよいよ強うなって行くというおかげを頂かして貰うという事。
 それが一年一年有り難うなっていくという確信。この道さえいわゆるここに真の道があったんだと分からしてもろうて、その真の道を邁進さしてもらう。ところが実際はです、その自分に神様が求め給う修行であると分かっておっても、なかなかそれに本気で取り組むということは難しい場合もあるけれどもですね、そこでお互いが眠かろうけれどもきつかろうけれども、本気での信心修行が出けていきよるとです、それを受けることが容易になる、楽に受けられる、むしろそれを有り難く受けていけれる。
 一生懸命信心修行の精神があり、信心修行でもさして頂いておる時じゃないとです、それが受けられない。成り行きを大事にさして頂く事は分かっておっても、それがなかなか大事にされない。それではです真の道を知っておるだけで、真を道を踏んで行かない事になるから、真のおかげにもならないし、いわゆる「歳が取るほど位が付く」と仰る位も付かない。ですからここんところをひとつ、皆さんがここで頂かれる、有り難いものをです、自分の我情我欲で薄めていくような。
 人からどうか言われたらそれで水を刺されて、薄うなってしまうといった様な事であってもいけない事と同時にです、これさえ頂いて行けば大丈夫という信心、それを私は本気でそこに取り組んで行くという信心、の私はその基礎になるものというね「信心をすれば一年一年有り難うなって来る」と確かに一年一年有り難うなっていっておる自分がいよいよ有り難い。この調子で行きゃぁいよいよ有り難くなれれるぞと、そういう喜びそういう信心の楽しみを身に付けて行くという、おかげを受けなければならんのだけれど。
 十年経っても二十年経っても、その有り難うなって行くという事には取り組まずに、ただおかげおかげに取り組んだんでは、一生掛ったって位が付かん。どんなに八十になっても九十になっても位が付かん。有り難うなって行かなければ、いや有り難うなるというその事が位である。神様が下さる位その位が付いて行けば行く程有り難うなっていけれる筈なんだ。それをならどうすりゃ有り難うなるかということも知らずに、知っておっても行じずに、何十年経ったって同じだということになる訳ですよね。
     どうぞ。